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2024年08月30日
渋沢栄一
(写真は渋沢史料館所蔵)
渋沢栄一が高木兼寛を敬愛し、その事業を助けるようになったのは、渋沢の大病を高木が二度にわたって治療したことが背景にあったと考えられます。明治期に活躍した渋沢は、戦争のたびに大病するといわれていました。明治27年(1894年)に日清戦争が始まって間もなく、渋沢は「面部」にガンを患い、東京慈恵医院の高木たちが手術を行いました。このとき、多くの医師が再発を恐れる中、高木は根治したことを明言し、渋沢を安心させたと渋沢自身が書き残しています。また、日露戦争が始まった明治37年(1904年)には、渋沢はインフルエンザにかかり、そのため中耳炎になってしまいました。さらには肺炎を併発し、高熱が続き、肺壊疽の初期と診断されるほど悪化しました。皇室から見舞いの品が届けられたり、元の主人の徳川慶喜が病床を見舞うなど、渋沢も死を覚悟するほど重体になりましたが、この時も高木は断固として悲観論を退け、必ず快復することを渋沢に明言しました。ほどなく病気を克服し、渋沢は高木への感謝の思いを深くしたと後に回想しています。高木のこのような姿勢は、自身の医学知識や技術への自信に基づくものであると同時に、「病人を診る」という渋沢に対する思いやりや励ましの気持ちの表れであったと言えるでしょう。
このような渋沢の高木への尊敬と感謝の念は、その後、東京慈恵会の副会長として募金から経営全般にわたる財政基盤確立のための尽力につながります。また、高木と渋沢の強い協力関係には、二人
の思想的な共通点も大きく影響していました。高木が診療費をとらない慈善病院である有志共立東京病院をつくったころ、東京には立派な病院がいくつもありましたが、それらは貧しい庶民には近寄りがたいものでした。高木はある病院の開院式で「これでは金のあるものだけがくる、金儲けのための病院ではないか」と言って周囲を驚かせたと言います。彼は多くの庶民のための公利公益の病院を作らなければならないと考えていました。一方、渋沢は「真の事業を営むは私利私欲でなく、すなわち公利公益である。公の利益になることを行えばそれが一家の利益にもなるのである。余の主義はすなわち利己主義でなく公益主義である」と述べています。有志共立東京病院から東京慈恵会医院に至る慈善病院が、医師から華族婦人、皇后陛下、さらに資本家、華族へと時代によって変遷しながら、最後は1,000人近い有志からの寄付によって運営されたことは、高木と渋沢の公利公益の思想が具現化した一大事業でした。
渋沢栄一は、生涯を通じて470もの企業の設立や運営に関与しましたが、支援した公益事業、慈善事業の数はそれを上回る600以上であったと言われています。高木兼寛も、海軍軍医総監としての職責のほか、自らが設立した病院、医学校、看護婦教育所などの運営に尽力し、さらには当時の国民病であった脚気の撲滅にも多大な貢献をしました。高木は脚気の研究を進めるよりも、脚気撲滅のための食事法・栄養学の普及のため、国内だけでなく海外でも講演を重ねました。そのため、脚気の原因に関係するビタミン発見はできなかったものの、ビタミン研究に功績のあった先駆者として南極の半島に「高木岬(Takaki Promontory)」とその名を刻まれました。
渋沢家は太平洋戦争後、一旦はGHQの財閥指定を受けましたが、その後指定を解除された「財なき財閥」でした。渋沢は晩年、子どもたちに「俺がもし一身一家のためだけに富を積もうと思ったら、岩崎や三井に決して負けはしなかったろうよ」と語っていたと言われています。そのような信念を持った人物を迎え入れることができた東京慈恵会は誠に幸運であり、現在の病院、大学、看護学校の礎を築いた先人に改めて感謝の思いを強くします。
参考文献
・ 松田誠. 東京慈恵会と渋沢栄一. 松田誠. 高木兼寛の医学 : 東京慈恵会医科大学の源流.
東京 : 東京慈恵会医科大学; 2007. P.787-812.
・ 渋沢雅英. 高木兼寛先生と渋沢栄一. 東京慈恵会医科大学百三十年史 上巻.
東京 : 学校法人慈恵大学; 2011. P.104-5.
慈恵大学と渋沢栄一
慈恵大学と渋沢栄一 Series6
有志共立東京病院から東京慈恵会医院に至る慈善病院が、最後は1,000人近い有志からの寄付によって運営されたことは、高木と渋沢の公利公益の思想が具現化した一大事業でした。
2024年08月30日
慈恵大学と渋沢栄一
慈恵大学と渋沢栄一 Series5
新しい1万円札の顔となった渋沢栄ーは、前身の有志共立東京病院創立当初から深く関与し、栄一本人はもちろんのこと、渋沢家一族をあげて本学を支え続けました。
2024年07月01日
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慈恵大学と渋沢栄一 Series4
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2024年06月06日
慈恵大学と渋沢栄一
東京慈恵会と渋沢栄一 Series-3
高木兼寛は英国留学から帰国した2年後の1882年に、多くの有志(医師、実業家)の醵金により、施療病院・有志共立東京病院(Tokyo Charity Hospital)を設立しました。「博愛思想によって貧乏な人民を救済せんと欲したのであります。人々の病気を治し、これを療するについては、一に看護、二に医師というぐらい看護の業が大切でありますから、病院、看護学校、医学校が揃えば、まずわが同胞の疾病を十分に救済することができる と深く信じたのであります。」と高木はこの頃のことを回想しています。
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