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慈恵大学と渋沢栄一

  • #取り組み・活動

2022年03月29日

東京慈恵会と渋沢栄一

 高木兼寛は英国留学から帰国した2年後の1882年に、多くの有志(医師、実業家)の醵金により、施療病院・有志共立東京病院(Tokyo Charity Hospital)を設立しました。「博愛思想によって貧乏な人民を救済せんと欲したのであります。人々の病気を治し、これを療するについては、一に看護、二に医師というぐらい看護の業が大切でありますから、病院、看護学校、医学校が揃えば、まずわが同胞の疾病を十分に救済することができる と深く信じたのであります。」と高木はこの頃のことを回想しています。

「東京慈恵会の誕生」

東京慈恵医院病棟

 有志共立東京病院は皇室や貴族などによる婦人慈善会の支援により発展し、1887年に皇后陛下を総裁に戴き「東京慈恵医院」と改称されます。病人を良く診ることが評判を呼び、更に多くの患者が集まり、施設の拡張と経営の安定が急務となります。病院の幹事長:有栖川宮威仁親王妃慰子殿下は幹事となっていた渋沢栄一の娘、穂積歌子と阪谷琴子を招き「お父上に病院拡張の計画をどのようにお考えになるか、問うてもらえまいか」と依頼します。慈恵医院開院以来20数年、熱心に支援してきた渋沢は快諾し、募金委員長となり政治家、実業家、財界人に働きかけます。更に経営基盤を盤石なものとするため社団法人設立の準備に取り掛かります。

徳川家達会長

 渋沢の娘婿で「日本の民法の祖」といわれる穂積陳重が社団法人東京慈恵会設立の草案を作成し1907年に認可されます。皇后陛下の御沙汰により有栖川宮威仁親王妃尉子殿下が総裁となり、会長 公爵・徳川家達、副会長 男爵・渋沢栄一、顧問 公爵・井上馨、男爵・岩崎弥之助、男爵・三井八郎衛門他、理事 公爵・鍋島直大、大倉喜八郎、安田善次郎他、日本の政財界すべての重要な顔ぶれが揃った陣容となりました。渋沢が集めた寄附金は莫大なものとなり、その運用(利子・配当)により病院の経営が安定し、更に教育施設が拡充されました。松田誠名誉教授(本学)は著書「高木兼寛の医学」で「栄一の母はまことに慈悲深い女性で、気の毒な人がいると黙っていられず、だれかれなく物を与えたり手伝ってやったりした。ある時、共同浴場に癩患者の女性が入ってきたとき、入浴者は気味悪がって逃げ出したが、気の毒に思った彼女は一緒に入浴し、背中まで流してやったという話が残っている。栄一には母の慈悲心が社会組織という衣を着て遺伝したようなところがあり、この心が慈恵の創立の精神とどこかで共鳴しあったのではないだろうか。母の慈悲心は孫、ひ孫の代まで影響し、渋沢家全体がこぞって慈恵医院婦人会や慈恵会の仕事に参加していったものと思われる。」と述べています。

「社団法人東京慈恵会の理事・副会長となる」

渋沢史料館本館 (渋沢史料館提供)

 大河ドラマ「青天を衝け」は孫の敬三が、若き日の栄一と言葉を交わすシーンで幕を閉じました。後に敬三は日銀総裁に就任、更に敗戦直後の壊滅した日本経済を大蔵大臣として立て直します。そして、東京慈恵会の理事・副会長を務めました。 桜の名所、北区飛鳥山公園内に渋沢史料館があります。2階の常設展示室には栄一の誕生から年齢順に展示ユニットがあり、67番目(67歳)に「社団法人東京慈恵会の理事・副会長徳川家達会長となる」が展示されています。

参考文献 : 松田誠「高木兼寛の医学 東京慈恵会医科大学の源流」、佐野眞一「渋沢家三代」

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