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慈恵大学と渋沢栄一

  • #取り組み・活動

2024年07月01日

慈恵大学と渋沢栄一 Series5

渋沢栄一
(写真は渋沢史料館所蔵)

 明治13年(1880年)に高木兼寛が英国留学から帰国し、有志共立東京病院を創立するにあたって、病院の運営は有志者の拠金(寄付金)で賄うことを決めました。明治15年(1882年)8月から始められた診療は、外来患者と入院患者で常時超満員でした。医療費が無料の慈善病院であったため、患者が増えれば増えるほど病院の運営は困難になり、明治16年(1883年)2月には再び拠金を募り、集まった多額の拠金の中には渋沢栄一の拠金も含まれていました。渋沢は、この頃からこのような医療事業に強い関心があったのです。

 有志共立東京病院は、開院後しばらくはこのような有志による拠金と、婦人慈善会によるバザーの売上金の寄付などによって支えられていました。しかし、それでは安定した運営が難しいため、明治20年(1887年)4月より東京慈恵医院に改組され、皇后陛下を総裁に推戴し、幹事長には有栖川宮熾仁親王妃董子殿下が就かれ、維持費は皇室の恩賜金と有志者の拠金によることになりました。明治20年5月9日、皇后陛下をお迎えして開院式が挙行され、これには渋沢も招待されました。
 

 この改組によって、病院の運営は安定し、東京慈恵医院の平均年収は有志共立東京病院の頃の1.6倍に上昇しました。この頃の高額拠金者の中に渋沢の名前があるほか、婦人慈善会から改組した慈恵医院婦人会の拠金者の中には夫人の渋沢兼子や長女の穂積歌子の名前も見られます。明治29年(1896年)4月、幹事長が有栖川宮威仁親王妃慰子殿下に交代となると、同時に常置制に変更された幹事の一人に穂積歌子が選ばれました。その後、明治39年(1906年)には次女の阪谷琴子も幹事に選ばれています。慈恵医院婦人会に対する渋沢家の後援は年を追って熱心になっていきました。

 東京慈恵医院への改組後も、診療を求める患者は増える一方で、資金不足のため、外来患者を制限せざるをえず、ベッド数の半分ないし三分の一しか入院させることができなくなっていきました。幹事長の威仁親王妃慰子殿下は、院長の高木に欧米での脚気に関する講演旅行の際に、各地の慈善病院の状況視察を依頼されるなど、医院の改革に熱心に取り組まれました。殿下から幹事の穂積歌子と阪谷琴子にも父上に医院拡張について相談するように依頼されると、すぐに渋沢から前向きな言葉が届けられ、さらにお声をかけるべき実業家、財界人について具体的な献策がありました。
 

 明治40年(1907年)、渋沢は東京慈恵医院の相談役兼実業家団体募金委員長を仰せつけられ、同年7月、渋沢の尽力により社団法人東京慈恵会が発足すると、渋沢は副会長・財務主任に就任、同時に夫人の兼子、娘の穂積歌子と阪谷琴子は評議員となりました。渋沢は東京慈恵会の実質的な中心者として、病院と医学校の財政基盤を改善し、亡くなるまでの24年間、会の運営に献身しました。
 東京慈恵会への渋沢家全体の寄与は大きいもので、一族の多くは後年まで毎月1円ないし5円をそれぞれの立場に応じて拠金していました。また、昭和6年(1931年)に渋沢が亡くなった後、孫の敬三が東京慈恵会の役員を継承し、終戦直後まで長く務めるなど、渋沢家はこぞって東京慈恵会を後援し、現在の慈恵大学の礎を築いたのです。

参考文献
・ 高木兼寛の医学:東京慈恵会医科大学の源流. 松田誠. 東京慈恵会医科大学 2007.12.

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