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慈恵大学と渋沢栄一

  • #取り組み・活動

2024年06月06日

慈恵大学と渋沢栄一 Series4

渋沢栄一
(写真は渋沢史料館所蔵)

 学祖高木兼寛が渋沢栄一と最初に会ったのは、軍医総監時代の明治18年頃で、兼寛を尊敬していた薩摩藩士の伊集院兼常が引き合わせました。その後、兼寛と渋沢が特に親しくなったのは、明治27年(1894 年)に渋沢の癌を兼寛が手術して以来のことです。渋沢は明治27年と明治37年の2回、生死にかかわる大病をし、その都度兼寛によって救われ、以来兼寛の仕事を献身的に手伝いました。
 明治15年(1882年)から兼寛たちが始めた有志共立東京病院は、いうまでもなく無料の慈善病院であったため、善意の拠出金やバザーの収益、皇室からの恩賜金によって経営されていました。しかし、患者の増加に十分対応できるものではなかったため、ベッドはあるのに入院患者を制限しなければならない状況でした。

 東京慈恵医院の幹事長に就かれていた有栖川宮威仁親王妃慰子殿下は、慈恵病院の改革に熱心に取り組まれ、明治40年(1907年)、渋沢栄一に東京慈恵医院の相談役兼実業家団体募金委員長を仰せつけ られました。同年7月、渋沢の尽力により社団法人東京慈恵会が発足。渋沢は副会長・財務主任に就きました。会長の徳川家達は象徴的な立場であり、実際の運営は渋沢が行ったと言われ、亡くなるまでの24年 間、会の運営に献身しました。
 東京慈恵会の発足に伴い、東京慈恵医院医学専門学校も東京慈恵会医院医学専門学校と改められ、東京慈恵会と病院と医学校の三位一体関係が確立され、この関係は終戦まで続きました。渋沢によって、東 京慈恵会(および病院、医学校)の財政基盤は改善され、施設拡充もなされるようになり、生理学教室(55坪)、図書庫(20坪)、雨天体操場(70坪)、解剖学教室(60坪)、病理学・細菌学教室(160坪)などが次々と建設されました。

 東京慈恵会医院医学専門学校は大正10年(1921年)に東京慈恵会医科大学に昇格しますが、これらの諸施設はその昇格のための重要な条件になったものと考えられます。つまりこれらの施設拡充によって、大 学としての教育が可能になったのであり、渋沢の功績は慈恵大学の歴史にとって高く評価されるべきでしょう。史料室に残る医学校の卒業アルバムには渋沢の写真が亡くなるまで20年以上掲載されています。
 昭和6年(1931年)に渋沢が亡くなった後、孫の敬三が東京慈恵会の役員を継承し、太平洋戦争当時は東京慈恵会の副会長として経営に尽力していました。終戦直後の窮乏と混乱が激しい中、敬三らが出席し て東京慈恵会医院の経営に関する会議が行われました。この席上、慈善病院としての存続が困難なことから、有料病院としての経営の提案がなされましたが、これは有志共立東京病院以来の東京慈恵会の使命 に反することになるので、病院の経営の一切を大学に任せることが決定しました。このような決断は、若くして日銀総裁、大蔵大臣などの要職を務めてきた渋沢敬三氏のごとき見識をそなえ、かつ慈恵大学に 対する深い理解をもつ人物でなければできなかったと言われています。これにより、慈恵病院は大学の主要な一部として経営され、大学の臨床医学部門として機能することになったのです。

参考文献
・ 高木兼寛の医学:東京慈恵会医科大学の源流. 松田誠. 東京慈恵会医科大学 2007.12.
・ 高木兼寛伝. 東京慈恵会医科大学創立八十五年記念事業委員会 1965.10.
・ 慈恵外史. 東京慈恵会医科大学同窓会 1985.10.

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