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2022年01月18日
1867年、渋沢栄一は徳川昭武に従いパリ万国博覧会に参加するためフランスへ渡航します。翌年、「鳥羽伏見の戦い」から戊辰戦争が始まり、鹿児島で蘭方医学を学び始めた高木は軍医として新政府の東北征討軍に加わりますが、野戦病院では役に立たず大村藩の医師達から「薩摩に医者はいないらしい。」と嘲笑されてしまいます。
高木兼寛
大河ドラマ「青天を衝け」(第22回の放送)では昭武一行の欧州での珍道中が描かれました。
それは静かな教会の中庭でシスターが負傷兵を介護している場面です。
案内役の神父から、ここは廃兵院で国のお金で治療が行われている事を聞き、渋沢は衝撃と感銘を受けます。
「これからの日本は、こうならなくてはいけない!」と強く思ったのです。
一方、高木は猛勉強の末、周囲の人々の助けで英国セント・トーマス病院医学校へ留学します。
当時のロンドンでは産業革命により貧富の差が大きくなっており、英国王室がセント・トーマス病院に貧しい病人を無料で診察する窓口を設けていました。
その窓口には英国の富裕層からの寄付や献金が寄せられ、病気で苦しむ人々を助けるのは当然の事という空気が流れていました。
また、この病院には英国全土から集められたナイチンゲール基金による、ナイチンゲール看護学校やナイチンゲール病棟もありました。
高木は帰国したら、病に苦しむ貧しい人々を無料で診療する施療病院を作ることを決心します。
セント・トーマス病院医学校での高木の成績は抜群で、13の優秀賞、名誉賞を受賞しました。
優秀な日本人留学生の評判を聞きつけて、英国視察中の渋沢の盟友・井上馨がわざわざ訪ねてきました。
井上は大いに激励し、帰国後も支援者となります。
西洋の地で人道的な体験をした二人は、帰国後に、その思いを実現するために、それぞれの道を歩き始めます。
そして1907年、二本の軌跡は一致し「社団法人東京慈恵会」が設立されます。
セント・トーマス病院
渋沢栄一(渋沢史料館所蔵)
日本経済新聞2021年10月20日朝刊で「いま渋沢栄一から学ぶ」という特集が組まれました。
世界中が「持続可能な成長」を模索する今、人間中心で皆が良く在る社会の可能性を追い続けた社会事業家・渋沢の存在が再注目されています。
設立・運営に関わった学校や社会福祉事業の他に、医療関係で貢献した現存する病院として「有志共立東京病院→東京慈恵会」、「博愛社→日本赤十字社」、「愛恵病院→聖路加国際病院」「浅草寺急療所→浅草寺病院」「恩賜財団済生会」が紹介されています。
参考文献:「日本経済新聞2021年10月20日朝刊」「東京慈恵会医科大学130年史」
慈恵大学と渋沢栄一
慈恵大学と渋沢栄一 Series6
有志共立東京病院から東京慈恵会医院に至る慈善病院が、最後は1,000人近い有志からの寄付によって運営されたことは、高木と渋沢の公利公益の思想が具現化した一大事業でした。
2024年08月30日
慈恵大学と渋沢栄一
慈恵大学と渋沢栄一 Series5
新しい1万円札の顔となった渋沢栄ーは、前身の有志共立東京病院創立当初から深く関与し、栄一本人はもちろんのこと、渋沢家一族をあげて本学を支え続けました。
2024年07月01日
慈恵大学と渋沢栄一
慈恵大学と渋沢栄一 Series4
20年ぶりの新紙幣が発行となり、1万円札は、「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一が選ばれました。皆さんは慈恵大学(学祖高木兼寛)と渋沢栄一に深い繋がりがあったことをご存じでしょうか?
2024年06月06日
慈恵大学と渋沢栄一
東京慈恵会と渋沢栄一 Series-3
高木兼寛は英国留学から帰国した2年後の1882年に、多くの有志(医師、実業家)の醵金により、施療病院・有志共立東京病院(Tokyo Charity Hospital)を設立しました。「博愛思想によって貧乏な人民を救済せんと欲したのであります。人々の病気を治し、これを療するについては、一に看護、二に医師というぐらい看護の業が大切でありますから、病院、看護学校、医学校が揃えば、まずわが同胞の疾病を十分に救済することができる と深く信じたのであります。」と高木はこの頃のことを回想しています。
2022年03月29日
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