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2021年10月21日
学祖・高木兼寛と渋沢栄一
「渋沢栄一が肖像、新一万円札印刷開始」2021年9月1日のNHKニュースが報じました。2019年に財務省から新一万円札の表図柄が渋沢栄一になると発表され、それに続いて2021年度大河ドラマ「青天を衝け」の制作が決まり、渋沢栄一は再び、時の人となりました。
そういえば、「青天を衝け」の脚本家大森美香氏は2015年のテレビ小説「あさが来た」でも主人公の銀行設立や日本女子大学創設の支援者として渋沢栄一を登場させていましたね。実は渋沢栄一は慈恵大学にとっても多大な貢献をいただいた恩人なのです。
2011年に刊行された「東京慈恵会医科大学130年史」に渋沢栄一のひ孫にあたる渋沢雅英氏の「特別寄稿:高木兼寛先生と渋沢栄一」が掲載され、微笑ましいエピソードが綴られています。
『不思議なことに渋沢栄一という人は日本が戦争をする度に病気にかかるという不思議なジンクスを生きてきました。(中略)91歳という長寿を保った人ですが、病気にかかると、ちょっとした風邪でも大げさに考えて、ひどく弱気になる傾向があったようです。』
主治医だった高木兼寛は、その度に悲観論を退け力強く励ましていました。渋沢栄一自身が『先生は断固として是を斥け、病気の必ず回復すべきを確言せられたり。此の時も果たして快癒して今更に先生の明晰を感謝したりき。』という一文を残しています。
高木の優れた医療への尊敬と、恩返しという意図もあったのか、1907年に社団法人東京慈恵会が発足すると副会長と財務担当者を引き受け、経営の全般に亘って支援します。
当時の多くの有力者が募金に協力しましたが、渋沢家では妻や娘から孫の嫁まで20名余りの女性がそれぞれ拠金されています。
1931年に渋沢栄一が亡くなった後は孫の渋沢敬三氏が東京慈恵会の役員を引き継ぎ、支援は継続されました。再び渋沢雅英氏の寄稿文から、『私の母の登喜子も、他の親類とともに栄一の遺志に沿って、毎月いくらかの寄付を終戦まで続けていたことを覚えております。
明治初年以来60年近く東京養育院の院長を務めるなど、栄一は公共慈善事業には強い思い入れを持っていました。長い生涯を通じて470という企業の設立や運営に関与しましたが、支援した公益や慈善事業の数はそれを上回り、600を超えていたと云われています。』
渋沢栄一は日本資本主義の育ての親として有名ですが、多くの非営利の社会事業:社会福祉事業や医療事業、教育事業にも関わりました。そして、貧しい人々を無料で診療する施療病院経営や医療者教育に取組む高木兼寛を支援し続けたのです。
参考文献: 「 東京慈恵会医科大学130年史」
慈恵大学と渋沢栄一
慈恵大学と渋沢栄一 Series6
有志共立東京病院から東京慈恵会医院に至る慈善病院が、最後は1,000人近い有志からの寄付によって運営されたことは、高木と渋沢の公利公益の思想が具現化した一大事業でした。
2024年08月30日
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慈恵大学と渋沢栄一 Series5
新しい1万円札の顔となった渋沢栄ーは、前身の有志共立東京病院創立当初から深く関与し、栄一本人はもちろんのこと、渋沢家一族をあげて本学を支え続けました。
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東京慈恵会と渋沢栄一 Series-3
高木兼寛は英国留学から帰国した2年後の1882年に、多くの有志(医師、実業家)の醵金により、施療病院・有志共立東京病院(Tokyo Charity Hospital)を設立しました。「博愛思想によって貧乏な人民を救済せんと欲したのであります。人々の病気を治し、これを療するについては、一に看護、二に医師というぐらい看護の業が大切でありますから、病院、看護学校、医学校が揃えば、まずわが同胞の疾病を十分に救済することができる と深く信じたのであります。」と高木はこの頃のことを回想しています。
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